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マルティン・ルター

マルティン・ルターについて語る PARLO DI MARTIN LUTHER

宗教改革(LA RIFORMA PROTESTANTE)の先駆者として知られる
マルティン・ルター(1483~1546)は
ドイツ中部のアイスレーベン(EISLEBEN)生まれの人である。

この時代、日本では室町末期、戦国時代に当たる。

当時のドイツは、神聖ローマ帝国(IL SACRO ROMANO IMPERO)のもとに諸領邦が分裂、
中央集権化がまったく成されていないという状況であった。
そのせいで諸外国からの干渉、特にローマ教皇庁(IL VATICANO)からは
搾取の恰好の対象とされていた。

修道院で学び司祭となり、ヴィッテンベルク(WITTENBERG)大学の神学教授を担当したルターは
1508年にローマに赴き、教会の世俗化と道徳的荒廃を目の当たりにする。
『新約聖書(IL NUOVO TESTAMENTO)』の「パウロ書簡」を特に研究の対象とし、
「信仰のみが義とされる」とうたったルターの福音主義は、
グーテンベルクにより開発された活版印刷技術の普及も手伝って、
次第に広まっていった。

一方、1514年、ローマ教皇レオ10世は、
サン・ピエトロ大聖堂(LA BASILICA DI SAN PIETRO)の修築を名目に、
贖宥状(免罪符・INDULGENZA)の販売を始める。
この背景には十字軍(LA CROCIATA)遠征や教皇の華奢な生活が引き起こした経済難もあった。
「コレを買えば現世で犯した罪が免除される」との文字通り「売り文句」が功を奏し、
贖宥状はドイツでも販売が行われた。

1517年、ルターは贖宥状の販売に反対する内容の声明をラテン語にて記し、
ヴィッテンベルク城教会の扉に貼る。
すぐに訳され、印刷されたこの『九十五箇条の論題(LE 95 TESI)』は波紋を呼び、
翌年には教皇使節による審問が行われたのであった。
しかしここでは決裂。
また、1520年には教皇から破門威嚇書が送られてきたが、彼はこれを民衆の前で焼却、
ドイツ皇帝カール5世により1521年のヴォルムス帝国議会に召喚されている。
従わなかったルターはその後、ザクセンのフリードリヒ賢侯にかくまわれ、
約8ヶ月、ヴァルトブルク(WARTBURG)に隠遁した。
その間に『新約聖書』をギリシア語からドイツ語に訳したり、
書物をしたためるなどの生活をした。
1522年には許されて、ヴィッテンベルク大学の教授に戻り、
著作で主張しているとおり「独身制否認」を自ら実行、元修道女と結婚した。

こうしてローマ教会より独立した新たな宗派が生まれていったのである。

しかし宗教改革は彼だけがもたらしたものではない。
この時代、ドイツでは農民一揆が多発していた。
農民のローマ教会に対する不満は、ルターの行動以前より存在していたわけである。
こうした政情不安、民衆の動きが改革の源となり、拍車をかけたのだ。
1525年にザルツブルクが陥落して終了した農民一揆などは、10万人もの死者を出している。

こういった宗教改革の動きを重く見たローマ教会からは、若者たちが立ち上がった。
反宗教改革である。
1534年にはイグナティウス・ロヨラらによりイエズス会が発足した。
イエズス会はローマ教会の巻き返しを図り、キリスト教未到達の国への布教を試みた。

ルターがいなければ、今の日本におけるキリスト教の姿は違った形であったかもしれない。
なぜならこのイエズス会の一員、フランシスコ・ザビエル
日本に1549年に上陸するからである。

参考文献
成瀬治監修『カラー世界史百科』平凡社(1978)
水村光男『この一冊で世界の歴史がわかる!』三笠書房(1996)

(2004年5月12日)

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